愛するということについて

今日はどんよりとした天気で、夕方には道路のアスファルトが濡れていた。

私は今日とて何もせず、しかし何かをしなきゃいけないように思われて、「ああ、あの映画を借りなきゃ」だの「あの本を読まなきゃ」だの「ああ、あのご飯を作らなきゃ」だのと気持ちだけ急かしていた。そして気疲れだけを残して何も実行せずに今に至るのである。

最近のトピックは「愛することの加害性について」です。と、私の中の人格がドヤ顔をする。そういえば、このワードに行き着いたのはいいが、その意味性を全然考えていなかった。ドヤ顔してる場合じゃない。今自分が考えている「愛することの加害性」とは何なのか。また、今自分が知っている愛することって何なのか。少し知りたくなった。

23歳の女が思うに(哲学科とか行ってちゃんと論理的に学んでいる人は、私と同じ年齢でももっとちゃんと思考できているのだろうなぁと思ったら泣きたくなった。ま〜た私は人と自分を比べている。悲しみの元である。)、愛することは相手の良き人生を願うことだ。……当たり前で何ら面白くないことを言い切ってしまうのだが…。そしてその愛するということは、ある個人に対してだけでなく、広く全ての人に対してであり、自分に対してでもある。ある特定の人だけを深く愛するだけでは、愛の実践は不十分であると考える。

逆に言えば、ある特定の人物を(悲恋によって)愛せない状況にいるのであるのならば、広く全ての人を愛し、自らを愛することでそれを達成することができるのである。(なるほど。自分で書いておいてなんか助かった。)

じゃあ、最初に自分がトピックとしてあげた「愛することの加害性」とはどういうことだろうか。つまり、よくない愛し方である。それについて素人なりに考えたい。

私がまず思い浮かべる「よくない愛し方」は、①自己中心的で利己的な愛のことである。好きだからといって相手の気持ちを考えずに好意を押し付けることだ。そしてこの場合の好意は自己愛であることも多いだろうと思う。一方的にその人のことを妄想してしまって、空想上のその人と恋をしてしまう状態や、自らが作り上げたその人の像を相手に押し付けることなどがあるだろう。「私は好き=だからあなたも私のことが好き」や、「私はこうされると嬉しい=だからあなたもこうされると嬉しい」とか。うまくお互いのタイミングが合えば、この些細なすれ違いに気づかず、付き合うことくらいできるんじゃないかと思う。でも相手に嫌われていた場合は100%バッドエンドである。辛い。

次に②依存的な愛である。相手を自分の扶養者や母・父などに見立て、養われようとするような場合のことだ。(もちろん、依存的な愛は、孤独な人間にとって時に脳が震えるほど持ちがいいし、救われることもある。だが、ここでいう依存とは、相手に一方的に寄りかかりすぎることのことを言っている。)例えば、付き合っているから相手は自分の世話をなんでも焼いてくれると思ったり、面倒を許されると思っていることなどがあるだろう。また、相手の都合を考えずに構ってもらおうとたくさん連絡を入れたりすることもある。これは①で述べたように、利己愛にも繋がっている。つまり、自己の欲求を解消するために相手を利用しようという態度だ。これは加害性であるし、搾取だ!!とも思った。今。

また、①、②の逆として、一方的に養おうとするとか、優しさを押し付けるとか、気にかけすぎるとか、そういうことの過剰さも暴力と言えるのかもしれない。(今自分はそういうところで悩んでいます。)

以上で述べた以外にも、もっとよくない愛し方は山ほどあるだろう。(暴力とか、暴言とか、盗みとか…。いや、それは愛ではなく、犯罪である。)

なら、今の私が望んでいる完璧な愛のステージってなんなんだろう。もちろん、愛し愛されたい、とかはある。与え、与えられる。私が望むのは、日常生活はお互いに自立して生活しているが、互いの弱いところは知っていて、それを互いに補い・修復しあえる関係がいいと思っている。生活やパーソナリティーに過干渉はせず、しかし互いのことを認め合っている関係。もっとも近くにいる他人のような、そんな関係性を築きたいと願っている。意見や空気感のすれ違いがあったらしっかり話し合いをしたいし、まずはどんなあなたも認めるという姿勢でいたい。余裕がないときは相手や自分を認められないかもしれないけれど、そんな自分も受け入れつついたい。相手に何かをして欲しい・こうなって欲しいと強く言いたくない。どんな自分も許せるような関係が欲しい。(また、欲をいえば、あなたが私で、私があなたであるような感覚を味わうことのできる瞬間が好きだ。同一になる感覚。一人で生きているという事実を忘れることができる感覚。孤立した1つの肉体の中に、あなたの魂も入ってくれているような充足感が欲しい。それさえあれば私は生きていけるから。)

では、どうすればそういった関係を得ることができるのだろうか。教えて欲しい。けれど、まずは自分で考えてみようと思う。第一に、相手を愛すように自らを愛し、自らを愛すように広く愛することが重要だと考える。(しらね〜!)人を愛せないなら、誰でもいいから練習してみるといい。君はただ一人の大切な人だと、一人一人に伝えていけばいい。そしてそれは私もそうだと、自分に言い聞かせればいい。(でも、私は去年そうやって過ごしてきて、結局何にもならなかった。ただのいい人だねとなって、気を抜けば醜悪な自分が隙間から顔を出し、自己嫌悪に陥った。自然な自分とのギャップで本来の自分自身を肯定することができなくなった。どうせ私が好かれるのは、この方法論的な優しさのおかげであって、何もない私を好きでいてくれる人なんていないんだ、って一人で感じたりした。そしてたったそれだけの愛の実践もできずに卑屈になる自分は誰にも愛されない。そういう負の感情のループから未だ抜け出せないでいる。)

話を戻そうと思うが、どうしたらそういう関係を作れるのだろうか?まず、たくさんの人に継続的に会って、緩やかな信頼関係を築いていくことから始めた方がいいだろうと思う。たまにしか会えない人は射程内から早めに排除するか、会えるように工夫するかした方がいい。(私が今好きだと錯覚している人は年に一回くらいしか会えない。なぜなら、私が自ら定義した上記の「よくない愛し方」と自らの行動を照らし合わせるばかりに、手も足も出せなくなってしまったからである。最悪だ。)また、好きな人がいるのなら、そいつと継続的な関係を築けるようにちょくちょく会うのがいいと思うし、いないのであればたくさんの友人の中から過ごしやすそうなやつをピックすればいい。(しかし全くそういったことができない。)

 

この世はクソ。お前もクソだし、私に会ってくれないあの人もクソ。素直に、好きだから会いたいっていう気持ちを言えばいいのに、言えないでいる私がクソ。この1年、遠回しに試行錯誤して、糸が身体中に絡まってお手上げ。馬鹿がよ。一生恋人できないわ。何が愛だ。何が加害性だ。傷つけたっていいんだよ、お互い様だろ、何無傷でいようと思ってんだ。何が上等な愛し方だ。実践して派手に失敗してから言え。馬鹿がよ。

 

おわり