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生きていくことも死ぬことも難しい。

朝から晩まで泣いていて、疲れていていつも頭が重い。脳の真ん中が常に痺れている。

父が亡くなったら、もう私が死ぬことも許されるだろう。そういうふうに考える。母が死んで、死へのハードルがなくなった気がする。死とは常に存在していて、別に高い壁を乗り越えなくともいつでもそちら側へ行けるのだと感じる。

この間、SNSで見た。出産の時に大きな痛みを伴うこと、それと同じように死ぬ時も大きな痛みを感じること。それは生まれてきた代償なのだというようなこと。もう十分生きたような気がする。

これだけ人間が溢れていれば、自分の代わりはたくさんいると感じる。人と物の違いとか、例えば工場で大量に型を使って生産されているプラスチック製品だとか、そういうものとの価値の違いとか。そういうことがよく分からない。親にとって子が、子にとって親が、かけがえのないものなのか、本当にそうなのか。そう錯覚しているだけなんじゃないかとか、考えなくてもいいことを考えている。肉親でさえそう疑ってしまうのに、他人だったら尚のこと。

自分を愛さないといけないだとか、自分を愛すことを通して他人を大切にするだとか、ここ2〜3年は頑張って実践したりした。十分頑張った。けど、心身を消耗して、自分を消費して終わった。何かを得られるわけでもない。人を大切にしたからといって大切にされるわけではない。資本主義社会だから、自分が商品として成立しない限り何かを与えてもらうことはない。何事も努力が求められる。当たり前か。自分は自分のためにもうそこまで頑張れない。

当たり前のことができない。人が当たり前に行えていることが満足にできない。食事をするだとか、歩くとか、人に笑いかけるだとか、1日を死ぬことなく過ごすだとか。なにそれ。それらがなんの苦労もなくできるだけでいいのに。息もまともに吸えないのに、これ以上求められても。視界は眩しくて、目を細めないと世界の色味がグレーに飛んでしまう。頭はぼやけていてあらゆることが不十分で、他人が全て攻撃的で恐ろしく見える。顔が気持ち悪い。自意識を顔や全身に塗りたくったような大勢の他人が、背後に跡を引きながら周囲を交差していく。その痕跡や漂った臭気を肺に入れないように、身体に浴びないようにして、萎縮しながらすれ違ったり、かわしたりする。そういったことで十分に疲れる。本当に気持ち悪い。誰のことも嫌いで、誰のことも好きじゃない。何かもかも。

甘えなのか。他人から見たら。そりゃ血も出ていないし骨も折れていない。でも、骨折してた時の方が何倍も普通だった。正直、この痛みから逃れられるのなら何だっていい。私は自分という存在を早く消したくてしょうがない。