好きな人のこと、クソ野郎だなって思うようになった。クソ野郎だよ、ミソジニーでいくじなしで低収入でアルバイターあんなに良い人なのにクソ野郎じゃんか。あんなに良い人だから私が支えてちゃんと定職に就けるようにしたいって思ったけどさ、そういう傲慢さが透けて見えたのか離れられてまるっきり他人になった。全部都合よく忘れたみたいな。クソ野郎だよ。思い出すの辛いから、クソ野郎だって思って生きてくしかないよ。辛いもん。40近かったら普通もっとちゃんと職についてるもん。さすがに夢見るバンドマン(バンドマンではない)みたいじゃん。私が支えるの♡なんてさすがに言ってられないよ。体調崩しやすいところあるから気にかけてたけど、元気になったらなったで私のこと邪魔物扱いじゃん。ずっと一人で生きていくんだよ。どうせ一緒になれないし、なったところで勝手に一人でどっかいくよ。そんな奴に家庭とか持てる訳ないじゃん。馬鹿馬鹿しい。アホなわたしはそんなやつでも救いたがる。私が馬鹿なだけだった。そんなんだったら適当に最低限お金ある人探した方がマシ。それが無理でも自分の収入で生きていけるだけ力つけたい。ミソジニーが。男だけ辛いみたいに思ってんなよ。時代遅れなんだよ。傷つかないようにばっか歩いて、かけてもらった優しさに気づかない。当たり前だと思ってる。つかなんて私の周りはこんなのばっかなの?傷つかないようにばっか振る舞って、かっこ悪くないように生きて、ダセェんだよ。傷付いたってなにも失われないよ。まぁ私がそこまで仲良くないだけだと思うけど。傷ついてみろよ。人のことは平気で傷つけるくせによ。

くそだよ、ほんとに。私みたいな自信も自己肯定感もない人間、結局誰と付き合ったって不安になるし関係なんて続かないんだよな。私のこと好きじゃないのに付き合わせてるって常に思っちゃう。友人でさえそうじゃん。だれだったら大丈夫とか、ないんだな、今わかった。残念だな。肯定的になれるように努力したけどな、むりだった。そこにずっといてくれない人に対して、ずっとそばにいて欲しいってずっと願ってる。それが全ての辛さの原因。私が一人でも大丈夫だった時は、その人のくれた言葉がずっと私のそばにいてくれた。今は、砂漠の真ん中で一人でいるような気分。全部無くなっちゃった。私を生かしてくれた言葉も無くして。私の悩みは局所的で、他人に話すとその馬鹿馬鹿しさが日の目を浴びることなる。とってもくだらないことです。くだらないことで悩むのは馬鹿の証拠です。(自分も外世界もくそなので(ちがう、私の受容体がダメなだけ)ピアス開けようかな?開けてないまだ。偉い子ちゃんだから。)

また自分じゃない誰かになろうとして、自分がなんだか分からなくなって、聞き分けの良い都合のいい人間になろうとして、また同じだ。なんか3年前に戻ったみたいな、ま〜た振り出しに戻っちまった笑 つら。好かれようと思って良い人演じて、その不自然さでいっつも嫌われるんだよな〜、まーーた同じだ。人の顔見えなくて、なに考えてるかわかんなくて、気にしてないフリしてどんどん悪化する。今までどうやって生きてきたんだっけ?なんて言ってもらってたんだっけ。わかんなくなった。全部本当に忘れちゃった。正論とか、慰めとか、話題の転換とかいらなくてさ(そんな言語的なことなんて自分一人でいくらでもできんだよ)、ただ「あなたが必要だ」っていって欲しかっただけ。それだけ。子供の時からずっと。必要じゃない自分がどんどん増えていく。溺れそう。




嘘の話

1〜2年前の今くらいの話。いや、11月から3月くらいにかけての話なんだけど、私にはその頃、大切だった人が一人いて。その時に2週間くらいその人と一緒に暮らしてた時の話なんだけど。その人とは年も性別も違くて、でもなんか初めて会った時に、この人はもう一人の私なんじゃないかなっていうか、そういうふうに思ってて。初めて会ってから1週間後に一緒に海に行って、砂浜で寝転んで一緒に空を見てた。今でもそれを忘れたくないと思ってる。去年の3月の冬の夜に、人のいない寂しいファミレスに行って、窓際の席でチェーン店の雑なご飯を食べた。その時の帰り道に、その人がなんかすごくかわいそうに見えて、駐車場で「一緒に住んでみませんか?」って聞いた。特に返答もなかったんだけど、気がついたら私たちは一緒にいたし、それが自然だった。一緒にご飯を食べてる時、私が元彼に卵焼きを作った時の話して「オムライス作った時に砂糖入れすぎて卵が甘くなっちゃったから、次は卵焼きには何も入れないでって言われて、だから何も入れないで作ったら味がしなくてすごいまずそうな顔されて嫌だった、だから別れた」って話をしたら、「俺だったら普通にケチャップかけて食べるけどね」って適当に笑ってくれたり、私が勝手に深刻に考えてることを小さく思わせてくれたのが嬉しかった。あと、冬なのにアイスコーヒーしか飲まなかったり、ベランダの窓ガラス越しに見えるその人のうなじとか、朝の5時くらいにブランコ漕ぎにいかない?って言ったら寝起きなのに公園探して付き合ってくれるような、その人とそういうふうに過ごすのが本当に好きだった。まるでこれから心中するみたいに、真っ暗な海の砂浜に立って、暗くてお互いの顔のパーツもわからないのに、顔の形を眺めてたりとかそんなことして過ごしてた。そして春になるまでの間で、その人とは会わなくなった。家が遠くて交通費がかかるとか、外出自粛だとか、いろいろと理由をつけて。お互いに遠慮しているうちに何もわからなくなった。その人はもう私の中からとっくに出て行ったのかもしれないけど、今でも自分はその人が一番大切に思ってしまっている。でも、そのうちいつかこんな日々もすっかり忘れてしまうのかなと思うと、寂しいような、最も輝いているような気持ちになる。

 

 

絵ってなんだろなぁ

毒のあるもの、危険なものは魅力的だという話、今の時代は危険を排除しすぎていて想定を超えるギリギリの美しさみたいなのはほとんど無くなっているよなぁと思う。死んでもいい、っていうような命の削り方、カッターナイフで鉛筆の芯を削るような、そんな命の削り方とその破片、そういう美しさはある。

私、薬飲むことで生きやすくなるけど、絵はそれでええんかわからないよ。絵を描くためなら死んでもいいじゃんかやっぱ。死んだら絵は描けないけど、死んでいいくらい良い絵が描けるならそっちを選びたいよ。

この春上旬の制作について

しっかり今の友人関係は楽しいです。私の気を晴らしてくれて、うまく日々を送れています。ただ、制作に身が入らないことがあるのも事実です。原因としては机が散らかっていてモチーフが見づらいことと、描いた絵が多すぎて散らかっていることです。

大学で制作をしろと勧められることがストレスの一つでもあります。他人に自分の背中というヤワなものを見せたくないからです。あと、私は作業場の近くにベッドがないとやっていけません。また、同じコースの人間は、基本的に騒がしくて品がなく、私の苛立ちを駆り立てます。

ですから大学で制作をしたくはないのです。しかし、大学に行かないと、教授の意見をもらうことができません。それはすこし懸念要素でもあります。私は殻にこもりすぎてしまうところがあります。私は自分の世界が壊れることが怖いのです。ですが、そんな自分像なんて壊れてしまえばいいとも思います。

不安なのは、一度壊れて、どう立ち直せるのかということです。でもそれは、おそらく新しい自分に出会えるということです。私は、まだ今の自分の状態でやりきれていないことがたくさん残っています。満足いくまでやれたのならば、またそれを外に出して、新しい光の粒を浴びればいいと思います。

なんで哀れまれる必要があるのか

なんかめちゃくちゃ虚しくなってきた。友達とかとワイワイつるむの、やっぱ好きじゃない。一人でいる方が何倍も充実するのに。一人でいる方がもっと詳細に観れる。なんか、尊敬してた教授に私が一人でいるのを哀れまれてちょっと嫌だった。偏見だよそれは。他人といるとイライラするし、空虚なんだよ。

なんか、薬飲んでるから無意味にどん底まで墜落したりはしないんだけど、無闇に虚しくなったりする。私はこの悲しみが大切な気がしている。たしかに、鬱気で生活がままならないのは苦しいけど、平気になって外に出まくってワイワイやるのもまた違う。この元気は制作に向けたい。

私はかわいそうなんですか?こんなに楽しいのに。人と仲良くすることだけが正しさでも幸せでもないよ。私はやっと私自身を愛でれるようになった。だからそれに時間を使ってていいじゃん。変に他人の正しさで押しかけないでよ。また息の仕方が分からなくなるじゃん。